名L【やり直し】第1回
名L【やり直し】第1回
(原題:別れた妻 投稿者:七塚 投稿日:不明)
秋の日です。大通りから少し外れた雑居ビルの二階にそのバーはあった。初めて入ったそのバーのカウンターで四方宗晴(しかた・むねはる)が飲んでいると、ふと横からホステスの視線を感じた。それは細面の顔、大きすぎるくらいの瞳が宗晴の顔を見つめている。見間違えるはずもなく。「紗羽(さわ)・・・・。」と思わず呟いていた。別れた妻の紗羽がそこにいる。実に五年ぶりの再会だった。
「こうしていても、何から話していいか分からないが・・・まず言おう。今夜は久々に会えて嬉しかった。」
『そう言ってもらえると、ほっとします。』
宗晴の言葉に、紗羽は顔をうつむきがちにしたまま小さく答える。その言葉の意味は、宗晴にはもちろん分かった。
「・・・昔のことは忘れよう。さっきも言ったとおり、今夜は久々に君と会えて嬉しい。出来れば別れるときも、楽しい気持ちで別れたい。」
すっと顔を上げて、紗羽は宗晴を見つめた。昔と変わらず、いや昔よりもさらにほっそりと痩せている。《少しやつれたか・・・》宗晴は思う。紗羽は宗晴の心を読んだかのように、恥ずかしげにまた瞳を伏せた。
『だいぶ年をとったでしょう。恥ずかしい。』
「お互い様だ。老け方なら僕のほうがひどい。」
『あなたは昔と変わらない。いえ、昔よりも活き活きとして見えるわ。きっと充実した生活を送っていらっしゃるのね。』
紗羽の言う『昔』が、二人が夫婦だった頃を指しているように聞こえ、宗晴はとっさに何も言葉を返せない。
『今日は本当に驚いたわ。まさかこんなところで再会するなんて・・・。』
紗羽は相変わらず酒が強くなく、少し飲んだだけでほんのり赤くなっている。
「僕のほうこそ。まさか・・・。」
君がホステスをやっているなんて―――と言いかけて、宗晴は言葉を飲み込んだ。少なくとも宗晴の知っている紗羽は、およそ水商売とは生涯縁のなさそうな女だったのに・・。
紗羽はすべて察したように、『いろいろあったんです。』と言った。それは、そうなのだろう。でなければ、三十も半ばを過ぎた女が、こんな裏ぶれたバーでホステスなどやっているわけはない。
「ひとつ聞いてもいいかな?」
『どうぞ。』
「君は再婚しているのか?」
少しのためらいの後、紗羽はうなずいた。
「・・・そうか。相手はやっぱり深津なのか?」
昔のことは忘れよう、と自分から言っておきながら、宗晴はやはり聞かずにはおれなかった。紗羽はまたうなずく。
「そうか・・・。」
『ごめんなさい。』
「君が謝る必要はない。」
そう言いながらもやはり、宗晴は胸を切り裂かれるような痛みを感じていた。
2016/04/29
(原題:別れた妻 投稿者:七塚 投稿日:不明)
秋の日です。大通りから少し外れた雑居ビルの二階にそのバーはあった。初めて入ったそのバーのカウンターで四方宗晴(しかた・むねはる)が飲んでいると、ふと横からホステスの視線を感じた。それは細面の顔、大きすぎるくらいの瞳が宗晴の顔を見つめている。見間違えるはずもなく。「紗羽(さわ)・・・・。」と思わず呟いていた。別れた妻の紗羽がそこにいる。実に五年ぶりの再会だった。
「こうしていても、何から話していいか分からないが・・・まず言おう。今夜は久々に会えて嬉しかった。」
『そう言ってもらえると、ほっとします。』
宗晴の言葉に、紗羽は顔をうつむきがちにしたまま小さく答える。その言葉の意味は、宗晴にはもちろん分かった。
「・・・昔のことは忘れよう。さっきも言ったとおり、今夜は久々に君と会えて嬉しい。出来れば別れるときも、楽しい気持ちで別れたい。」
すっと顔を上げて、紗羽は宗晴を見つめた。昔と変わらず、いや昔よりもさらにほっそりと痩せている。《少しやつれたか・・・》宗晴は思う。紗羽は宗晴の心を読んだかのように、恥ずかしげにまた瞳を伏せた。
『だいぶ年をとったでしょう。恥ずかしい。』
「お互い様だ。老け方なら僕のほうがひどい。」
『あなたは昔と変わらない。いえ、昔よりも活き活きとして見えるわ。きっと充実した生活を送っていらっしゃるのね。』
紗羽の言う『昔』が、二人が夫婦だった頃を指しているように聞こえ、宗晴はとっさに何も言葉を返せない。
『今日は本当に驚いたわ。まさかこんなところで再会するなんて・・・。』
紗羽は相変わらず酒が強くなく、少し飲んだだけでほんのり赤くなっている。
「僕のほうこそ。まさか・・・。」
君がホステスをやっているなんて―――と言いかけて、宗晴は言葉を飲み込んだ。少なくとも宗晴の知っている紗羽は、およそ水商売とは生涯縁のなさそうな女だったのに・・。
紗羽はすべて察したように、『いろいろあったんです。』と言った。それは、そうなのだろう。でなければ、三十も半ばを過ぎた女が、こんな裏ぶれたバーでホステスなどやっているわけはない。
「ひとつ聞いてもいいかな?」
『どうぞ。』
「君は再婚しているのか?」
少しのためらいの後、紗羽はうなずいた。
「・・・そうか。相手はやっぱり深津なのか?」
昔のことは忘れよう、と自分から言っておきながら、宗晴はやはり聞かずにはおれなかった。紗羽はまたうなずく。
「そうか・・・。」
『ごめんなさい。』
「君が謝る必要はない。」
そう言いながらもやはり、宗晴は胸を切り裂かれるような痛みを感じていた。
2016/04/29
名L【やり直し】第2回
名L【やり直し】第2回
第1回
『あなたはどうなんですか?』
深津紗羽(ふかつ・さわ)がぽつりと言った。
「どういう意味?」
『再婚のことです・・。』
「まさか。していないよ。」
『どうしてなの?』
「どうしてって。この年だし、仕事が忙しいし、それに・・・なかなか女性と知り合う機会もないよ。」
『そんなことないと思うわ。宗晴さんはハンサムだから・・。』
四方宗晴(しかた・むねはる)の胸が疼いた。《『宗晴さん』か・・・そう呼ばれたのは久しぶり―――5年ぶりだ。》
「僕はハンサムなんかじゃない。金持ちでもない。・・おまけに女房を他の男に奪われるような、情けない男だ・・。」
「・・・・」
紗羽の顔が哀しげに曇った。
「・・・すまない。僕は相変わらずだ。過去のことは忘れるなんて言っておいて、僕にはとても出来そうにない。」
『当然だわ。あなたには私を責める資格があるんですから・・。』
「・・・・・・」
宗晴は思い返す。5年前の・・あの日のことは忘れられない。あのとき目にした光景は胸の奥に今も生々しい傷跡を残し、折につけてじくじくと痛んでいる。
それは雨の日だった。商談相手の都合でて急に出張が取りやめになり、雨の降りしきる中、宗晴は夜遅くになって自宅へ帰ったのだ。鍵を開け、玄関へ入ってすぐに異変に気づく。見たことのない男物の靴がそこにあった。そのときに感じた戦慄は、今でもはっきりと覚えている。
静かな家の中は雨の音以外、何も聞こえなかった。音を立てないように宗晴はゆっくりと廊下を進み、汗ばんだ手で寝室の戸を開けた。そこで目にしたものは、今でも夢の中に時々出てくる。ベッドの上には二人・・・紗羽と、そしてもう一人の男。最悪なことに、その男は宗晴のよく知っている男だった。二人は裸で絡み合っていた。そして―――夫婦は終わった。
「あのとき、君は何も語らなかった。何も言い訳をせずに、ただ『ごめんなさい』、『離婚してください』と言うばかりだった。僕は君を憎んだ。怒りのあまり殴りさえした。それでも君は何も言わなかった。最後には何もかもどうでもよくなって、離婚に同意をした。」
宗晴は一気にそう語ってから、ほうっとため息をつく。
「正直に言うよ。今でも時々そのことを悔やんでいる。」
『あなたには本当に悪いことをしてしまいました。』
気がつくと、紗羽の瞳が潤んでいた。
「・・・いや、たしかに僕はあの頃いい夫じゃなかった。仕事にかまけて夫らしいことを何ひとつ・・・。だから今でもずっと後悔しているんだ。」
『いえ、あなたはいい夫でした。それは私が誰よりもよく知っています。』
紗羽は小さな、しかしはっきりした声でそう言った後、上目遣いに宗晴を見た。
『ごめんなさい。それならなぜあんなことになったんだ、と仰りたくなったでしょう。』
「いや・・・そん・・。」
一瞬否定しかけた宗晴だったが、ふと黙ってグラスを見つめる。
「そうだな、正直に言ってそう思ったよ。」
『ごめんなさい。』
「もう謝らなくてもいいから・・・。ただ・・・理由を教えてくれないか。そうでなければ、僕はいつまでも先に進めそうにないんだ・・。」
元妻の紗羽は瞳を伏せ、また哀しい顔をする。形のいい額の下で、長い睫が震えていた。
やがて―――紗羽は顔をあげた。
2016/05/13
第1回
『あなたはどうなんですか?』
深津紗羽(ふかつ・さわ)がぽつりと言った。
「どういう意味?」
『再婚のことです・・。』
「まさか。していないよ。」
『どうしてなの?』
「どうしてって。この年だし、仕事が忙しいし、それに・・・なかなか女性と知り合う機会もないよ。」
『そんなことないと思うわ。宗晴さんはハンサムだから・・。』
四方宗晴(しかた・むねはる)の胸が疼いた。《『宗晴さん』か・・・そう呼ばれたのは久しぶり―――5年ぶりだ。》
「僕はハンサムなんかじゃない。金持ちでもない。・・おまけに女房を他の男に奪われるような、情けない男だ・・。」
「・・・・」
紗羽の顔が哀しげに曇った。
「・・・すまない。僕は相変わらずだ。過去のことは忘れるなんて言っておいて、僕にはとても出来そうにない。」
『当然だわ。あなたには私を責める資格があるんですから・・。』
「・・・・・・」
宗晴は思い返す。5年前の・・あの日のことは忘れられない。あのとき目にした光景は胸の奥に今も生々しい傷跡を残し、折につけてじくじくと痛んでいる。
それは雨の日だった。商談相手の都合でて急に出張が取りやめになり、雨の降りしきる中、宗晴は夜遅くになって自宅へ帰ったのだ。鍵を開け、玄関へ入ってすぐに異変に気づく。見たことのない男物の靴がそこにあった。そのときに感じた戦慄は、今でもはっきりと覚えている。
静かな家の中は雨の音以外、何も聞こえなかった。音を立てないように宗晴はゆっくりと廊下を進み、汗ばんだ手で寝室の戸を開けた。そこで目にしたものは、今でも夢の中に時々出てくる。ベッドの上には二人・・・紗羽と、そしてもう一人の男。最悪なことに、その男は宗晴のよく知っている男だった。二人は裸で絡み合っていた。そして―――夫婦は終わった。
「あのとき、君は何も語らなかった。何も言い訳をせずに、ただ『ごめんなさい』、『離婚してください』と言うばかりだった。僕は君を憎んだ。怒りのあまり殴りさえした。それでも君は何も言わなかった。最後には何もかもどうでもよくなって、離婚に同意をした。」
宗晴は一気にそう語ってから、ほうっとため息をつく。
「正直に言うよ。今でも時々そのことを悔やんでいる。」
『あなたには本当に悪いことをしてしまいました。』
気がつくと、紗羽の瞳が潤んでいた。
「・・・いや、たしかに僕はあの頃いい夫じゃなかった。仕事にかまけて夫らしいことを何ひとつ・・・。だから今でもずっと後悔しているんだ。」
『いえ、あなたはいい夫でした。それは私が誰よりもよく知っています。』
紗羽は小さな、しかしはっきりした声でそう言った後、上目遣いに宗晴を見た。
『ごめんなさい。それならなぜあんなことになったんだ、と仰りたくなったでしょう。』
「いや・・・そん・・。」
一瞬否定しかけた宗晴だったが、ふと黙ってグラスを見つめる。
「そうだな、正直に言ってそう思ったよ。」
『ごめんなさい。』
「もう謝らなくてもいいから・・・。ただ・・・理由を教えてくれないか。そうでなければ、僕はいつまでも先に進めそうにないんだ・・。」
元妻の紗羽は瞳を伏せ、また哀しい顔をする。形のいい額の下で、長い睫が震えていた。
やがて―――紗羽は顔をあげた。
2016/05/13
名L【やり直し】第3回
名L【やり直し】第3回
顔を上げた深津紗羽(ふかつ・さわ:37歳)は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、宗晴は見る。
『ごめんなさい。』
しかし、結局紗羽の口から出た言葉はそれだけだった。
「『ごめんなさい』か・・・。」
四方宗晴(しかた・むねはる:40歳)は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。いつの間にか、5年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてくる。目の前の紗羽は、顔をうつむけて、しのび泣いていた。その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを宗晴は痛みとともに自覚する。
「・・・もういいよ。」
宗晴は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを。」
紗羽が顔をあげる。
「君は今、幸せなのか?」
涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
『・・・それは・・。』
戸惑ったような紗羽の声。いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、紗羽ならそれよりもむしろ宗晴の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。宗晴の知っている紗羽はそういう女だった。だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。宗晴自身にも自分の気持ちが分からなかった。
四方はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。夜の風が冷たか
ったことだけは覚えている。季節はもう確かに秋なのだ。せっかくの休日だったが、何もする気になれない。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。煙草を咥えると、胃がきりきりと痛み。紫煙の向こうに昨夜の紗羽の面影がよぎる。
『幸せです。』
最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、宗晴の耳から離れなかった。
宗晴は大学の美術サークルで白川紗羽(しらかわ・さわ)と知り合った。宗晴が大学の三回生となった春のことだ。新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする紗羽を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
紗羽の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた宗晴には、紗羽の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。 第4回に続く
2017/01/16
顔を上げた深津紗羽(ふかつ・さわ:37歳)は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、宗晴は見る。
『ごめんなさい。』
しかし、結局紗羽の口から出た言葉はそれだけだった。
「『ごめんなさい』か・・・。」
四方宗晴(しかた・むねはる:40歳)は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。いつの間にか、5年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてくる。目の前の紗羽は、顔をうつむけて、しのび泣いていた。その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを宗晴は痛みとともに自覚する。
「・・・もういいよ。」
宗晴は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを。」
紗羽が顔をあげる。
「君は今、幸せなのか?」
涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
『・・・それは・・。』
戸惑ったような紗羽の声。いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、紗羽ならそれよりもむしろ宗晴の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。宗晴の知っている紗羽はそういう女だった。だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。宗晴自身にも自分の気持ちが分からなかった。
四方はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。夜の風が冷たか
ったことだけは覚えている。季節はもう確かに秋なのだ。せっかくの休日だったが、何もする気になれない。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。煙草を咥えると、胃がきりきりと痛み。紫煙の向こうに昨夜の紗羽の面影がよぎる。
『幸せです。』
最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、宗晴の耳から離れなかった。
宗晴は大学の美術サークルで白川紗羽(しらかわ・さわ)と知り合った。宗晴が大学の三回生となった春のことだ。新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする紗羽を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
紗羽の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた宗晴には、紗羽の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。 第4回に続く
2017/01/16
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