名L【やり直し】第3回
名L【やり直し】第3回
顔を上げた深津紗羽(ふかつ・さわ:37歳)は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、宗晴は見る。
『ごめんなさい。』
しかし、結局紗羽の口から出た言葉はそれだけだった。
「『ごめんなさい』か・・・。」
四方宗晴(しかた・むねはる:40歳)は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。いつの間にか、5年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてくる。目の前の紗羽は、顔をうつむけて、しのび泣いていた。その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを宗晴は痛みとともに自覚する。
「・・・もういいよ。」
宗晴は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを。」
紗羽が顔をあげる。
「君は今、幸せなのか?」
涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
『・・・それは・・。』
戸惑ったような紗羽の声。いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、紗羽ならそれよりもむしろ宗晴の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。宗晴の知っている紗羽はそういう女だった。だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。宗晴自身にも自分の気持ちが分からなかった。
四方はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。夜の風が冷たか
ったことだけは覚えている。季節はもう確かに秋なのだ。せっかくの休日だったが、何もする気になれない。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。煙草を咥えると、胃がきりきりと痛み。紫煙の向こうに昨夜の紗羽の面影がよぎる。
『幸せです。』
最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、宗晴の耳から離れなかった。
宗晴は大学の美術サークルで白川紗羽(しらかわ・さわ)と知り合った。宗晴が大学の三回生となった春のことだ。新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする紗羽を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
紗羽の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた宗晴には、紗羽の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。 第4回に続く
2017/01/16
顔を上げた深津紗羽(ふかつ・さわ:37歳)は何かを言おうとして言葉にならない様子だった。その叙情的な瞳から一筋の涙が伝い落ちるのを、宗晴は見る。
『ごめんなさい。』
しかし、結局紗羽の口から出た言葉はそれだけだった。
「『ごめんなさい』か・・・。」
四方宗晴(しかた・むねはる:40歳)は呟くように言い、唇を強く噛み締めた。いつの間にか、5年の歳月を飛び越えて、あの日あのとき感じた様々な感情が胸に呼び起こされてくる。目の前の紗羽は、顔をうつむけて、しのび泣いていた。その様子を見つめる自らの胸に去来する激しい愛憎の念が、今でも強くこの女に結びついていることを宗晴は痛みとともに自覚する。
「・・・もういいよ。」
宗晴は短く言った。
「そのかわりといっては何だが、これだけは聞かせて欲しい。君の、正直な気持ちを。」
紗羽が顔をあげる。
「君は今、幸せなのか?」
涙で潤んだ瞳が、驚いたように見開かれた。
『・・・それは・・。』
戸惑ったような紗羽の声。いくら正直な気持ちを聞かせて欲しい、と言われたところで、紗羽ならそれよりもむしろ宗晴の気持ちを傷つけない答えを選ぶかもしれない。宗晴の知っている紗羽はそういう女だった。だからこそ、いま彼女は迷っている。どう答えるのが一番よいのかが分からなくて。分かるはずなどない。宗晴自身にも自分の気持ちが分からなかった。
四方はその夜、どこをどういうふうに自宅まで帰ったのか覚えていない。夜の風が冷たか
ったことだけは覚えている。季節はもう確かに秋なのだ。せっかくの休日だったが、何もする気になれない。朝食を作る気にすらなれなくて、コーヒーだけですませた。煙草を咥えると、胃がきりきりと痛み。紫煙の向こうに昨夜の紗羽の面影がよぎる。
『幸せです。』
最後に彼女の口から出た一言。その一言がいつまでも、宗晴の耳から離れなかった。
宗晴は大学の美術サークルで白川紗羽(しらかわ・さわ)と知り合った。宗晴が大学の三回生となった春のことだ。新入生歓迎コンパのとき、恥ずかしそうに自己紹介をする紗羽を見て、可愛い子が入ってきたなと思ったものの、それ以上の感想を最初は持たなかった。印象が変わったのは、彼女の絵を見てからだった。
紗羽の絵は花や動物や周囲の風景といった日常の風景を描くだけで、特に奇をてらったところもなく、地味といえば地味な画風だった。しかし、そうした日常の小さなものにそそぐ視線の温かさが感じられ、見ているだけで心が和むような絵であった。自己主張ばかり激しくて内容のない絵から抜け出せないでいた宗晴には、紗羽の素朴で温かみのある絵は新鮮だった。 第4回に続く
2017/01/16
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