中O【罠に陥る新妻の涼音】 第2話
中O【罠に陥る新妻の涼音】 第2話
雑居ビルとマンションの間に挟まれた小さな平屋建てで、清潔そうな店だった。〈ブルージュ〉というこの店に、以前に健介と二人で訪れたことがある。まだ引っ越して来たばかりの頃だった。紅茶がおいしかったのが印象的だった。それに気の優しそうな店のマスターと、少し話したことがあった。
何より、この郊外の小さな町には他に喫茶店と呼べるような店がない。あとはだいたいスナックとかパブとか、お酒を飲むような店ばかりなのだ。
〔いらっしゃいませ。〕
口髭を生やしたマスターは三十代の半ばくらいで、背が高く、がっしりとした体格をしている。店は四人掛けのテーブル席が五つほどと、カウンター席という小さな作りになっている。
〔今日はお一人ですか?〕
マスターは涼音を憶えていてくれたようだった。もう閉店が近い時間なのか、店はすいていた。奥のテーブル席に一人だけ客が座っていた。
『え…ええ。』
涼音は無理に笑顔を作って答えた。
〔失礼だが、喧嘩でも?〕
涼音が険しい顔をしていたからだろう。マスターはよく透るバリトンで静かに訊いた。鳶色の眼は人の心の中をなんでも見透してしまうような不思議な雰囲気を持っている。
『え、ええ…まあ。』
〔そう…。〕
テーブル席の一つに腰掛けた涼音の注文を聞かずに、マスターはカウンターのうしろの棚から飲みかけのワインの瓶とワイングラスを持ってきて涼音の前に置いた。
〔少しだけ飲むと落ち着きますよ。サービスにしときます。といっても常連さんからの戴き物なんですけどね。〕
赤紫色のワインが注がれる。
『どうもすみません…。』
普段は滅多にアルコールを口にしないが、何を飲もうと思って入ったわけでもない。健介へのあてつけの気持ちも働いて涼音はグラスに口をつけた。口あたりが柔らかく、乾いた喉にやさしげな、軽い感じのワインだった。
『あ、おいしい…。』
マスターは何も言わずにわずかに微笑み、カウンターの中に戻って洗い物を始めた。涼音はぼんやりと窓の外を眺めた。急ぎ足で家路に向かう背広姿の男性が、店の前を通り過ぎていく。やがて奥の席でスポーツ新聞を読んでいた商店主風の男性客が勘定を払って出て行ったのを最後に、店の中には他に客がいなくなった。
2015/01/29
雑居ビルとマンションの間に挟まれた小さな平屋建てで、清潔そうな店だった。〈ブルージュ〉というこの店に、以前に健介と二人で訪れたことがある。まだ引っ越して来たばかりの頃だった。紅茶がおいしかったのが印象的だった。それに気の優しそうな店のマスターと、少し話したことがあった。
何より、この郊外の小さな町には他に喫茶店と呼べるような店がない。あとはだいたいスナックとかパブとか、お酒を飲むような店ばかりなのだ。
〔いらっしゃいませ。〕
口髭を生やしたマスターは三十代の半ばくらいで、背が高く、がっしりとした体格をしている。店は四人掛けのテーブル席が五つほどと、カウンター席という小さな作りになっている。
〔今日はお一人ですか?〕
マスターは涼音を憶えていてくれたようだった。もう閉店が近い時間なのか、店はすいていた。奥のテーブル席に一人だけ客が座っていた。
『え…ええ。』
涼音は無理に笑顔を作って答えた。
〔失礼だが、喧嘩でも?〕
涼音が険しい顔をしていたからだろう。マスターはよく透るバリトンで静かに訊いた。鳶色の眼は人の心の中をなんでも見透してしまうような不思議な雰囲気を持っている。
『え、ええ…まあ。』
〔そう…。〕
テーブル席の一つに腰掛けた涼音の注文を聞かずに、マスターはカウンターのうしろの棚から飲みかけのワインの瓶とワイングラスを持ってきて涼音の前に置いた。
〔少しだけ飲むと落ち着きますよ。サービスにしときます。といっても常連さんからの戴き物なんですけどね。〕
赤紫色のワインが注がれる。
『どうもすみません…。』
普段は滅多にアルコールを口にしないが、何を飲もうと思って入ったわけでもない。健介へのあてつけの気持ちも働いて涼音はグラスに口をつけた。口あたりが柔らかく、乾いた喉にやさしげな、軽い感じのワインだった。
『あ、おいしい…。』
マスターは何も言わずにわずかに微笑み、カウンターの中に戻って洗い物を始めた。涼音はぼんやりと窓の外を眺めた。急ぎ足で家路に向かう背広姿の男性が、店の前を通り過ぎていく。やがて奥の席でスポーツ新聞を読んでいた商店主風の男性客が勘定を払って出て行ったのを最後に、店の中には他に客がいなくなった。
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