長Ⅱ14「ダブル」 第1回
長Ⅱ14「ダブル」 第1回
(原題:二人の妻 投稿者:桐 投稿日:2014/09/28)
横浜の自宅を出るころは雲が多かった空も、JR湯河原駅(神奈川県足柄下郡)に着いた時はすっかり晴れ上がっていた。紅葉にはまだ早いが、かえってそれだけに有名な温泉地とはいえ降車客も多くない。急に思い立った旅行だったが、希望の宿も問題なく予約することが出来た。
『気持ちいいわ。これこそ秋晴れって感じですね。』
駅前に降り立つと、オレンジ色のニットのトップに白いパンツ姿の妻(白井佐和子)が両手を上げて大きく伸びをする。明るい栗色に染めたウェーブのかかった髪が陽光にきらめくのを私(白井孝介)はまぶしげに見つめる。
孝介は地面に置いた佐和子のバッグを空いた手で持つと、タクシー乗り場に向かう。
『あの……自分の荷物は自分で持ちますよ。』
佐和子が小走りで孝介を追いかける。孝介はドアを開いたまま客を待っている数台のタクシーのうち、先頭の車に乗り込むと「ホテルT」と行き先を告げる。
「チェックインにはまだ早いから、ホテルに荷物を預けて少しその辺りを散歩をしよう。」
『そうですね。2人とも日頃運動不足ですから。』
佐和子がにっこりと笑うのがドアミラーに写る。
「佐和子。」
『はい。何ですか?』
「その丁寧語はやめろ。」
『だって……習慣になっていますから、すぐには直りませんわ。』
妻の佐和子は少し困ったような顔をする。
孝介と佐和子が出会ったのは今から2年前、大手都市銀行[首都銀行]の審査1部に審査役として配属された孝介は、その企画グループに所属していた久保佐和子と出会った。
一度結婚生活に破れた経験のある孝介は、女性と付き合うことについては臆病になっていた。しかし、佐和子の育ちのよさから来る天然のアプローチが次第に孝介の心を動かし、一年後に2人は結婚する。首都銀行は同じ職場の行員同士が結婚すると、どちらか一方は転勤しなければならない内規があり、このため佐和子はターミナル店舗である渋谷支店の営業部に異動となり、法人営業の仕事に就いている。
タクシーは10分もしないうちにホテルに着いた。フロントに荷物を預けて身軽になった孝介と佐和子は、再び外へ出る。『いい眺めですね。』くっきりとした山並みを見ながら、佐和子が溜息をつくように言う。色づき出した木々が美しいまだら模様を作っている。
『沙織ちゃんも一緒だったら良かったですね。』
佐和子の表情少し翳りが差したのに孝介は気づく。
「今回の旅行は沙織が勧めてくれたんだ。その気持ちをありがたく受け取っておこう。」
『はい。』
孝介には前妻との間に出来た娘の沙織がいる。5年前に前妻と離婚したとき、小学2年だった沙織にはまだ“母親”が必要だと孝介は考えたのだが、沙織は実母と暮らすことをはっきりと拒絶する。そればかりでなく、沙織はずっと母親との面会も拒んできた。孝介は娘に根気強く、母親と会うことを奨めたのだが、沙織は頑として受け付けなかった。
佐和子と結婚が決まってからは、孝介も娘と母親を会わせることを諦めるようになる。孝介は佐和子が沙織とすぐに家族同様にはなれないかもしれないが、いずれはよき相談相手にはなれるのではないかと期待した。そのためには沙織に、母親と会わせることを奨めるのはむしろ弊害になるのではないかと思ったのである。
孝介が「佐和子と結婚したい。」と話したとき、沙織は少しショックを受けたような顔をしたがすぐに平気な顔をして、<良かったじゃない、お父さん。>と微笑した。3人で暮らすようになってからも、沙織は佐和子に対して屈託のない態度を示したが、それは孝介には、まるで年の離れた姉に対するようなものに見えた。
沙織が佐和子のことを母と呼ぶ日が来るのかどうか、孝介には分からない。継母と娘の葛藤といったことは一昔前のドラマや小説ではよく聞くはなしだが、離婚がごく当たり前になった現在では、さほど珍しいものではないのかもしれない。今年中1になった沙織が佐和子のことをどう位置付けるのかは沙織自身に任せようと、孝介は考えていた。 第2回に続く
2016/08/04
(原題:二人の妻 投稿者:桐 投稿日:2014/09/28)
横浜の自宅を出るころは雲が多かった空も、JR湯河原駅(神奈川県足柄下郡)に着いた時はすっかり晴れ上がっていた。紅葉にはまだ早いが、かえってそれだけに有名な温泉地とはいえ降車客も多くない。急に思い立った旅行だったが、希望の宿も問題なく予約することが出来た。
『気持ちいいわ。これこそ秋晴れって感じですね。』
駅前に降り立つと、オレンジ色のニットのトップに白いパンツ姿の妻(白井佐和子)が両手を上げて大きく伸びをする。明るい栗色に染めたウェーブのかかった髪が陽光にきらめくのを私(白井孝介)はまぶしげに見つめる。
孝介は地面に置いた佐和子のバッグを空いた手で持つと、タクシー乗り場に向かう。
『あの……自分の荷物は自分で持ちますよ。』
佐和子が小走りで孝介を追いかける。孝介はドアを開いたまま客を待っている数台のタクシーのうち、先頭の車に乗り込むと「ホテルT」と行き先を告げる。
「チェックインにはまだ早いから、ホテルに荷物を預けて少しその辺りを散歩をしよう。」
『そうですね。2人とも日頃運動不足ですから。』
佐和子がにっこりと笑うのがドアミラーに写る。
「佐和子。」
『はい。何ですか?』
「その丁寧語はやめろ。」
『だって……習慣になっていますから、すぐには直りませんわ。』
妻の佐和子は少し困ったような顔をする。
孝介と佐和子が出会ったのは今から2年前、大手都市銀行[首都銀行]の審査1部に審査役として配属された孝介は、その企画グループに所属していた久保佐和子と出会った。
一度結婚生活に破れた経験のある孝介は、女性と付き合うことについては臆病になっていた。しかし、佐和子の育ちのよさから来る天然のアプローチが次第に孝介の心を動かし、一年後に2人は結婚する。首都銀行は同じ職場の行員同士が結婚すると、どちらか一方は転勤しなければならない内規があり、このため佐和子はターミナル店舗である渋谷支店の営業部に異動となり、法人営業の仕事に就いている。
タクシーは10分もしないうちにホテルに着いた。フロントに荷物を預けて身軽になった孝介と佐和子は、再び外へ出る。『いい眺めですね。』くっきりとした山並みを見ながら、佐和子が溜息をつくように言う。色づき出した木々が美しいまだら模様を作っている。
『沙織ちゃんも一緒だったら良かったですね。』
佐和子の表情少し翳りが差したのに孝介は気づく。
「今回の旅行は沙織が勧めてくれたんだ。その気持ちをありがたく受け取っておこう。」
『はい。』
孝介には前妻との間に出来た娘の沙織がいる。5年前に前妻と離婚したとき、小学2年だった沙織にはまだ“母親”が必要だと孝介は考えたのだが、沙織は実母と暮らすことをはっきりと拒絶する。そればかりでなく、沙織はずっと母親との面会も拒んできた。孝介は娘に根気強く、母親と会うことを奨めたのだが、沙織は頑として受け付けなかった。
佐和子と結婚が決まってからは、孝介も娘と母親を会わせることを諦めるようになる。孝介は佐和子が沙織とすぐに家族同様にはなれないかもしれないが、いずれはよき相談相手にはなれるのではないかと期待した。そのためには沙織に、母親と会わせることを奨めるのはむしろ弊害になるのではないかと思ったのである。
孝介が「佐和子と結婚したい。」と話したとき、沙織は少しショックを受けたような顔をしたがすぐに平気な顔をして、<良かったじゃない、お父さん。>と微笑した。3人で暮らすようになってからも、沙織は佐和子に対して屈託のない態度を示したが、それは孝介には、まるで年の離れた姉に対するようなものに見えた。
沙織が佐和子のことを母と呼ぶ日が来るのかどうか、孝介には分からない。継母と娘の葛藤といったことは一昔前のドラマや小説ではよく聞くはなしだが、離婚がごく当たり前になった現在では、さほど珍しいものではないのかもしれない。今年中1になった沙織が佐和子のことをどう位置付けるのかは沙織自身に任せようと、孝介は考えていた。 第2回に続く
2016/08/04
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